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無縁社会なるものから交友関係を考察してみた [自然-nature]

今日はスポーツクラブは休み。というか出遅れた。ということでネット徘徊。
(薬カクテルしてるのにw)酔っ払った勢いで思ったことを書きなぐってみよう。

最近無縁社会って言葉を見かけて気になっている。
高齢者がそういう状況になるのは身近にもある話だし、これは今に始まった話じゃないにしても、
我々世代にそういう状況が普通に存在してるってところが興味深い。
今はこうしてネットもあるし、日本全国のバイクを通じた仲間やアンジーを通じた友人、
そして趣味があう様々な知人に支えられていると、自身の無縁社会な状況はあまり実感できない。
主観で見ることができなくても客観に見ることはできる。
これは自分のことには目を背けてるってことだろうか。まあ、そうなのかもしれない。

人によっては「付き合い苦手だから友達も仲間も要らない」って人もいるだろうけど、
そういう人は「要らない」ってのはただの言い訳というか理屈、事実として友達が作れないだけ。
対人関係が内向きに苦手な人は仕方ないとしても、外向きに苦手な人は総じて似た感じ。
誰も言わないだけだけど、周りから見てても
「あ~、それじゃ友達できないよね」って特徴を備えてる。
人と人ってのは育った環境も学校も一緒じゃないからいろいろな物事や知識や感じ方について、
価値観、そして造詣の程度が異なる。知識に限って言えば自分で打ち立てた理論と思っていても、
意外とそこらに転がってる本や記事の受け売りだったりして、
(受け手は気を遣って言わないだけで)ベリーチープなことがある。
そういう時に恥ずかしい思いをしないためにも、また、相手の話を聞く必要(姿勢)もあるので、
相手が話すであろう内容を知っていても「そうなんだ」とか「なるほど」って相槌を打つことも時に重要。
会話はキャッチボール(死語)であって、ディベートではないし、知識を披露するだけの場ではない。
こう書けばそういう人は「迎合してるだけじゃんそれ」みたいに切り返すんだろうな。
「ハイ俺が論破した~」みたいにね。
でも外向きに対人関係が築けない人ってのはここがとても特徴的な反応をする。
「会話で知識を披露してああ言えばこういう、こう言えばそう言う、で話が前に進まない」
「とにかく何を話しても斜に構えてて「いいねソレ!」とは基本的に(ほぼ絶対?)言わない」
そういう人間関係を築けないことの代償措置として変なベクトルに突き進んでいったりする。
かつそれに対して誰も指摘もしない。指摘することへの労力すら省略したくなられたら終わり。
気がついたらコミュニケーションはおろか、買い物も飲み水ですらボタンクリックのセカイになって、
そうして無縁社会に(怯えていないふりをしつつも)突き進んでいく。
盲目に、本人の思う速度以上で。下手すれば本人が気づいてないだけで相当囲まれてるかも。

でもそういう人ってどんなソサエティにも必ず存在しているので、
交友関係を広げて人生の糧としたい人はそれを反面教師とすることができる。
ああなったら誰も友達になりたくならないよな、あれじゃ友達できないよな、って。
友達関係だけではなく、会社という単位でも同じ状況だと思う。
個とは言っても一定量の集団、群体に所属しているわけであって、その集団の全体力を上げることが最も全体にとって効果が最大化するのではないかと思う。
個々の知識がいくら高くてもナレッジマネジメントが無ければ群体としての機能は向上しない。
ネットや本で見た知識でもいいし人から聞いた話でもいいし、
それをインプットして「いい加減に(いい塩梅の意)、適当に(量的均等の意)」アウトプットすること
なによりも重要なんじゃないかと思う。知識の源泉は先人から後進へもたらされるものであり、
後進から聞かれた時に「ネットで検索しろ」では、結果的に得られる知識量は同一だったとしても、
そこに人間的関係は築かれないし、生産性の意味からして果たして結果はどうなのか分からない。
ここは評価する立場に無いし、実践している事象に対して答えが得られていないので分からない。

そして地域的なつながりについてもどんどん希薄になっているのを感じる。
悪い響きにしか聞こえないがムラ社会という単語は閉鎖的な響きがある反面、
さまざまな助け合いが常時存在している身の回りの根源的な最小単位ではないかと思う。
今、その最小単位をバイクやアンジー、スポーツクラブという別な形に変えているのか・・・?
都会ほど構成員は多いはずなのに、最小単位が最も構築できないと思う。。。

さいわいバイクに乗る友人は都心ど真ん中に住んでいてもその自由の翼を使うことができるが、
その翼を持たない人というのはある意味、都会に閉じ込められた存在ではないかと考える。
経済的な生産性はあったとしても人間的な生産性は伴っているとは思えない。
誰かが作ったコンテンツを受動しているだけで、それを体内に例えれば常駐細菌みたいなものか。
幸い友達、仲間、知人はみんな特徴的で共感できる趣味を有していて、
かつ話していても楽しい人ばかり。都会をうまく使って便利に生きている人ばかり。
仮に閉じ込められているとしても、SNSや他のツールでつながっていられるのは
たぶん時代が変わったから。まぁ某SNSもいろいろ問題もあったりして完全ではありませんが。
しかしそういったツールの存在を古典的だのなんだの、友達もおらず発信する情報もなく
人を否定してばっかり、かつ相手の話をのっけから否定する人ほど
クローズドエリアですらコミュニケーションが図れないんだと思います。見てきた感じでは。

いつもフザケてばかりのブログ記事なので、たまには長文を書きなぐってみたいと思いました。
闇雲にディスってるわけじゃないけど、ただ受動する他のツールと違ってブログは発信できます。

短く言うと友達とか仲間っていいなーと思います。自分を羨ましく思ってる。
学生時代の友達もそうですけど、社会に出てから自分の職場とまったく関係ない業界の人や
そういった人達から得られるものってほんと一生ものの大切なものだと感じます。

(もしかしたら案外自分が盲目なのかもしれませんが)無縁社会には無縁でいたいと願っています。

今、猛烈にまた観たい映画「INTO THE WILD」
http://intothewild.jp/top.html
これに出てきた最もグッと来た言葉「感動は誰かと分かち合わないと本当の感動とはならない
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コメント 2

SAY

会話はキャッチボールであってディベートではない、
っていいフレーズだね。
使わせてもらおうっと(笑)

で、まぁまぁ、いろんな人がいるさ。
でも私はよっぽど全面悪な人でない限り、
一度友達になった人ならいいところを1つでも見つけて
そこは認めてあげたいなー。
あ、最初から友達にもなれないほど無理!って人は別だけど。
人間関係って白か黒じゃなく、
グレーゾーンがあってもいいと思うわ。
一時許しがたいほどその人が嫌いになっても
人って自分も含め、過ちをおかしてしまうことが
人生に何度かはあると思えば
時が経てば許す気持にもなれるかもなぁ・・・


と、嫌いだった父が亡くなった時思ったのでした。
どす黒い感情を持ったまま、その対象となった人がいなくなると
自分の心にそのヘドロが残ったまま浄化されないさ。





by SAY (2011-01-20 14:33) 

yurnet3

>SAYさん
>いいところを1つでも見つけてそこは認めてあげたいなー。
この寛容さを持ちあわせていないところが幼稚ですね~僕ちん。
残った心のヘドロの取り扱いは自分も父に対してのものに限らず、
交友関係でも同じことかもしれませんね・・・
細かいことを気にしたりせず大きな心でいられる器量が足りないってことなんですかね・・・
by yurnet3 (2011-01-20 19:05) 

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